「ちょんまげ隊長ツンさん」親切の極意  “無関心の壁を打ち破れ! ”

 

今年6月、“ちょんまげ”姿で災害被災地や海外貧困地域での支援活動、障がい者支援など、多岐にわたる活動をなさっている「ちょんまげ隊長ツンさん」こと、角田寛和(つのだひろかず)さんに「小さな親切」実行章を贈呈。『小さな親切』夏号(8/1発行)では、贈呈式の様子とインタビューを掲載しました。

とても気さくで明るく、アイデアマンの角田さん。その人柄に多くの人が惹かれ、活動の輪がどんどん広がっているように感じました。

組織を持たず、無理せず、楽しく。10年に亘る様々な支援活動の裏にある、角田さん流のボランティア哲学。誌面に載せきれなかったお話を「続編」として、一挙ご紹介します。

運動本部・鈴木恒夫代表より、「小さな親切」実行章を贈呈

 

ボランティア活動のおかげで「親切になった」

 

私がボランティア活動を始めたのは、2011年の東日本大震災がきっかけ。もしもタイムスリップして、10年前の私に「今もまだボランティアを続けているよ」と伝えても、当時の私は信じないでしょうね。それまで、どちらかと言えば、ボランティアには無縁の人間でした。でも、この10年活動を続けるうち、私はずいぶん変わりました。一言でいうと「親切」になりましたね(笑)。

私は靴屋を経営していますが、それまではけっこう算盤づくの性格で、儲けることしか考えていないようなところがありました。それが、ボランティア活動で多くの人に出会い、感謝されたり、被災者のいろいろな話を聞いているうち、人に優しくなったと思います。というより、「人の存在に気付けるようになった」といった方がいいかもしれません。

今では、店に来たおばあさんのステッキに目が行って、それをきっかけに話しかけたり、お客様と会話をするようになりましたし、従業員にも、優しく接していると思います。(笑)

人間としては、今の方が心豊かな生活を送っていると断言できますよ。そう、支援活動は他人のためにしていることではあるけれど、それ以上に自分自身のためになっているのだと実感しています。

「大阪人めんどくさ!」からの“最敬礼”

 

私は日本代表のサポーターをしていますが、Jリーグのチームは、J1からJ3まで、47都道府県より多い57チーム。日本中どこにでもあり、ありがたいことに、そのサポーターたちが、私の支援活動の声がけに反応して、協力してくれるのです。

サッカーを応援する人のことを「サポーター」と呼ぶように、サッカーサポーターとボランティアは、親和性があると思います。彼らは、ホーム&アウェーの対戦形式で、遠征は当たり前。普段は別のチームのサポーターでも、日本代表ではひとつになり、協力しあって応援する。そういうことにも、慣れているからかもしれません。これまで、全国の数多くのサポーターが支援活動に参加してくれました。

例えば、災害から一年も経つと、ボランティアの炊き出しなどは減っていきますが、私たちは、東北のある集会所で、お菓子を食べながらおしゃべりをする「お茶っこ」をやることにしました。そこに、大阪のサポーターが手伝いに来てくれたのです。

「“551の豚まん”持ってくから」と。

「ありがとう!それじゃあ、電子レンジ用意しておくわ。」

「ああ、だめだめ、それじゃ本当のおいしさが伝わらへん。蒸し器、用意しといて!」

「蒸し器?わかった……。」

正直、「大阪人、めんどくさ!」と思いつつ準備したのですが、その豚まんを食べた地元のおばちゃんたちが「おいしい、おいしい。こんなにおいしい豚まん、食べたことない!」と、とっても喜んでいたのです。

その時、ようやく気づきました。大阪からわざわざ人が来てくれたこと、一年経っても自分たちを気にかけてくれているということ。それらも、豚まんの味に含まれていたのですね。それからは、長野県ならおやき、東北なら牛タンの串焼きのように、郷土料理のような土地の名物をリクエストするようになりました。あのときの豚まんと大阪人には、改めて“最敬礼”したい気持ちですね。

 

知ってもらうために、目立つ企画を考える

 

東日本大震災発生後、宮城県の牡鹿半島は、まったく支援物資が届かず、長い間陸の孤島のようになっていました。私はそこへ何度も支援に行きましたが、2011年12月、被災した子どもたちに、「ベガルタ仙台」のホームゲームを観戦してもらうバスツアーを企画しました。子どもたちに元気になってほしいし、変わっていないものがあることを見せたい一心でした。実際、帰りのバスの中の子どもたちは、見違えるように笑顔になっていて、「企画してよかった」と思えた瞬間でした。

そして2016年には、牡鹿半島の子どもたち4人をブラジルでのサッカーワールドカップに連れて行きました。コストはかかりましたが、多くのメディアが取材に来てくれました。『小さな親切』誌でもお話したように、私の活動の目的の一つは、困っている人、被災地の現状を「知ってもらうこと」。そのために、根っからの“目立とう精神”を発揮して、多くの方に興味を持ってもらえるような企画を立てるようにしています。

また、私の活動資金は、ネットなどで呼びかけて集まった寄附だけが頼りです。基本的にお金はあまりないので、頭を働かせないと何もできません。これまでにも、いろいろな企画を立てましたが、貧乏だから発想できたのだろうなと思います。大きな団体で予算があったら、もっと大がかりなことをするかもしれませんが、ボランティア活動は自分たちでできる範囲でやるものですから、私にはこれで十分です。

ツンさんの活動は国内にとどまらない。ネパールへは2015年の大地震発生以来、支援を続けている。

 

障がいについても「知る」ことから

 

私は「障がい者スポーツ体験会」の開催など、障がい者支援も行っています。でも、恥ずかしながら、かつては障がいのある方については「無関心」で、街中で白い杖を持った方を見ても、何と声をかけてよいのか分からず、スルーしていました。

あるとき、ブラインドサッカーの日本代表選手の一人が、「私も東北へ支援にいきたい」と言い出しました。私は「あんな大変な場所に、目の見えないあなたが行くの?」と、驚きましたが、彼は真剣でした。「いつもみんなに助けられているから、今度は自分が何かをしたい」と。

彼と東北まで車で移動する間、いろいろな話をしました。いいおっさん同士ですから、下世話な話もするし、冗談も言う。私となんら変わりません。私はこれまで、障がいのある方と接したことがなかったため、彼らを色眼鏡でみていたことに気づかされました。

被災地の子どもたちとのブラインドサッカーの体験会は、とても盛り上がり大成功。やはり、実際に「触れる」「知る」ということが大切なのだと再認識した出来事でした。

 

フットワークで作るネットワークは強い

 

世の中SNSが盛んになって、情報が飛び交い、人々のネットワークは簡単に作れそうに見えます。でも、やはり実際に会って築かれたネットワークにはかないません。支援活動で実際に現地にいって、同じ釜の飯を食って、苦楽を共にすると、共感度が跳ね上がるのです。

被災地では、さまざまなショッキングな出来事にも、感動的なシーンにも出会います。それを体感したものにしかわからない、「共有感情」が生まれるのです。それと、支援活動に実際に関わってもらうことで、「他人事」から「自分事」になる。これが大事です。

SNSで100万の「いいね!」が付くより、共有体験を持った10人の同行者とのネットワークの方が強い。「小さな親切」運動に関係している皆様にはきっと、わかっていただけると思います。

継続的にボランティアを行っている豪雨被災地の熊本県球磨村。 ツンさんの「伝える」支援のおかげで、海外からも支援が届いた。

 

家族の理解? ドラマのようにはいきません(笑)

 

私には、大学生の娘がいるのですが、父親がちょんまげ姿であちこち飛び回っているというのは、恥ずかしいようです。一度、奥さんが娘と話しているのを、聞き耳を立てて聞いていたのですが、なんて言っていたと思いますか?

妻は、「しょうがないじゃない。ああいう人なんだから、あきらめなさい!」と言っていました(汗)。てっきり「お父さんは、人のために頑張ってるのよ。」と、説得してくれるのを期待していたんですけどね(笑)。

また、私は娘の小中高を通じて、PTAの役員をやりましたが、高校に入る前、娘に尋ねたことがあります。

「高校でも、PTA役員をしてもいいかい?」

「いいけど、もしもお父さんが“ちょんまげ隊”ってばれたら、私は学校を辞めるからね!」

本当は、高校の生徒たちに、ちょんまげ姿で私の活動の意味や被災地の様子などを話したかったのですが、娘は私の唯一の「弱点」。無視はできません。ただ、最後の最後。娘が高校を卒業する時に許可を得て、ようやく思いを遂げることができました。

奥さんにも娘にも、私が好きでボランティアをやっているのはバレバレ。支援活動には大変な時もありますけれど、愚痴などこぼしたら「じゃあ、辞めれば?」と言われるのがオチ。なかなかドラマのようにはいきません(笑)。

 

 

私のしていることは「恩送り」

今回の「小さな親切」実行章の受章を機に、親切運動を知り、誰かの親切が、受けた人や見た人たちにつながり、次の「親切の種」になる運動だと思いました。そういう、人と人の交流の中には必ず「心の動き」があるのです。感動だったり、共感だったり、勇気だったり。私がしている活動も、まさに同じです。人々の「心の動き」が、私の背中を押してくれています。

 

しかし私にも、ボランティアに対する意欲が下がったときがあります。そんなとき、福島県から避難していた友人が、突然私に封筒を差しました。中を見ると、4万円が入っています。彼自身、先行きの見えない生活ですので、

「おいおい。馬鹿言うなよ。大変な時期なのに。」と一度は返したのですが、

「いえ。私は使いたくないお金なので、ツンさんの活動に使ってください。」と彼は受け取りません。

そのお金は、電力会社から被災者への一時金でした。彼の置かれていた状況や、複雑な心境を思うと、今でも涙が出てきます。私はボランティア活動を再開し、私が受けた恩、彼の想いを次の人に送らなくてはならないと思いました。それ以来、私は自分の活動は「恩送り」なのだと感じています。

災害は他人事ではない

 

今の日本は毎年のように豪雨があって、大きな被害がでています。昨年は熊本で、今年は熱海で。決して、災害は特別なものではなくなっています。私は、昨年豪雨被害を受けた熊本県の球磨(くま)村に、何度も足を運んでいますが、村全体が消えそうなほどの大変な被害でした。

それに今は新型コロナウイルスの影響もあって、ボランティアが少ないです。「県外からのボランティアは受け入れてはいけない」といった誤解も生まれています。

被災地の状況を知っておくことは、誰にとっても重要なことです。それだけで、もしも自分が災害にあったとき、命が助かる可能性は上がるし、行動の指針も見えてくると思うのです。防災には限界があるかもしれません。でも減災への努力はする必要があります。

私はこれまでの経験から、「被災地報告会」として講演も行っていますし、SNSでは様々な情報も発信しています。また、一緒に活動してくださる仲間も随時募集しています。お時間があったら、ぜひご覧いただけると嬉しいです。


 

【「見る」支援をしませんか ~東北復興支援映画『MARCH』~】

 

東日本大震災から2年後、福島県南相馬市で支援活動を始めた角田さんは、小中学生のマーチングバンド「Seeds+(シーズプラス)」に出会いました。放射能汚染から逃れるため、各地にバラバラになってしまった子どもたち。しかし、こんなときだからこそ「音楽をあきらめたくない、音楽で人々を元気づけたい」と再び南相馬に結集し活動を始めていました。

角田さんは、福島の現状を知ってもらい、子どもたちに活躍の場を与えたいと、サッカーサポーターとしてのネットワークを活かし、各所へ声をかけました。そして、それに賛同したサッカーJ2・愛媛FCは、「Seeds+」を公式戦に招待し、演奏の機会を作ってくれるなど交流が生まれました。

2016年、角田さんは「Seeds+」の活動、愛媛FCとの絆を記録した映画『MARCH』を企画・プロデュース。ロンドンフィルムフェスティバルで、最優秀外国語ドキュメンタリー賞を受賞するなど、海外でも高く評価されました。角田さんは、「見る」支援として、この映画の自主上映会の開催を呼びかけています。

 

●ドキュメンタリー映画『MARCH』について

 

また現在、コロナ禍のため1年延期されていましたが、「平成30年7月豪雨災害」で被害を受けた愛媛県・ 南予地域の復興支援イベント「えひめ南予きずな博」に「Seeds+」を招待し、豪雨災害の被災地でコンサートをするため、クラウドファンディングを開催中。

これを企画している団体(特定非営利活動法人 U.grandma Japan)を応援すると、映画『MARCH』をYouTubeで視聴することができます。

 

音と光の力で愛媛県の南予地域に愛顔(えがお)を届けたい!!

 

震災と原発事故によって、故郷の風景や日常生活が一変してしまった子どもたちが今を精一杯生き抜く姿、音楽とともにキラキラとした笑顔を取り戻していく姿が胸に刺さる作品です。ぜひ、ご支援いただけると嬉しいです。

 


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