近所づきあいが避難(ひなん)生活をささえてくれました(その2)

宮城県(みやぎけん)看護師(かんごし)さんの話(その2)

【ふだんのお付き合いのおかげで】

はじめ、避難所(ひなんじょ)は小学校の体育館だけでしたが、その後人が増え、教室も避難所になりました。

避難した当初は、お年寄りや子どもたちはより高いところに避難させようということで、体育館のステージの上にあげました。

初日の避難所には、物資がほとんどありませんでした。しかし、体育館では小学校の先生とPTAが避難者への対応を行い、わずかにあったパンを半分に分け、お年寄りと子どもたちに配っていました。

避難所でまず必要になるのはトイレです。しかし、体育館・校舎・屋外トイレとも使用できない状態でした。そこで、ステージわきに急きょトイレを作ったのです。卓球(たっきゅう)台を目かくしのかべにして、その向こう側に学芸会で使う衣しょう入れにしていたプラスチックケースをならべました。

夜になると真っ暗になって、トイレの場所が分からなくなります。そこで学校にあったかい中電灯でトイレの場所を照らし、トイレを使用できるようにしてくれる人がいました。ありがたかったです。

夜10時ごろに町のそうぎ社の方が、会社にあったろうそくとマッチを持ってきてくれました。その時はまだ市内の水が完全に引いていなかったのですが、その中を必死になってとどけてくれたようでした。

初日に体育館に避難した人は約400人でした。それが2日目には800人になり、最大で2,000人まで増えたのです。そのときは、たたみ2まい分のスペースに6人がくらすこととなり、すわっても重ね合わさなければ足がのばせない状態でした。おたがいにゆずり合いながら足をのばせる時間を作り、何とか避難所生活を始めました。

2日目に「避難所本部」というものができました。校舎の1階はがれきでうまっていたので、場所は2階に決まりました。
本部には先生方やPTAに加え、地域(ちいき)の人たちも集まりました。津波(つなみ)をまぬがれた地元スーパーの経営者が「使えるものは持っていってくれ」と言ってくれたので、本部の人たちは食料などを避難所に運んできて、その食料を避難所にいる人たちに配りました。

また、水が引いたあと家に帰り、使えそうなもの、食べられそうなものを持ってきた避難者もいました。その人たちは、その食料を家族だけでなく周りの避難者にも配っていました。

この避難所には同じ地域の人たちが避難してきていましたが、このあたりでは、自分の家におくり物があると、それを小分けにして近所にもおすそわけをするという習慣があります。一人くらしの老人の家にもおすそわけをしながら声かけもするという地域で、それが避難所でも行われたのです。

地域の人はみな知り合いで、おすそわけ・声かけは日常的に行なうなど、ふだんから深いお付き合いがありましたので、あの状況(じょうきょう)でそれがうまく働いたのかなと思います。避難所の運営自体も他の地域の避難所よりうまくいったと思いますが、これもたまたま、同じ地域の人たちが多く避難してきた避難所であり、顔見知りがほとんどだったからではないでしょうか。

避難所では食料・トイレよりも大切なのが水です。2日間は学校に備ちくされていた水を分け合っていましたが、3日目に自衛隊が給水を開始してくれました。これはありがたかったですね。