第1章 東日本大震災に学ぶ
「災害文化」と教育

『東日本大震災』。この数年間の間に、私たち日本人は何度この言葉を聞いたのでしょう。
そして、被災者以外の方には、「それについてはもう知っている」という気持ちが芽生える頃でもあります。何をどれくらい知っているのか、自分でもよくわからないのにそう思えてしまうところが怖い点です。

それは『記憶の風化』と言ってもいいでしょう。「小さな親切」運動にご協力いただいている脳科学者の栗田正(くりた・あきら)教授は、「脳は自分を守るために情報を取捨選択して、その後忘れるという作業もするのです」と解説してくれました。確かに長い人生で、つらいことを全て覚えていたら、生きにくいでしょう。しかし、時として、必要であるはずのこともいっしょに忘れてしまうこともあるのです。

東日本大震災では現場での判断がうまくいかず、多大な犠牲者がでてしまったケースもあります。逆に、的確な指導によって学校にいた全員が助かったケースもありました。人々の意識のほんのわずかの違い。それが途方もなく大きな差になってしまったのです。

「災害文化」について研究している山崎友子教授

残念ながら自然災害を完全に防ぐことは、人間にはできません。災害が起きたときに、最善の策をとるしかありません。同じようなことが自分の身に起きたとき、あなたには咄嗟に正しい判断ができるでしょうか。大切な子どもたちを守ることができるでしょうか。

そのヒントを、岩手大学地域防災センター 災害文化部門の山崎友子(やまざき・ともこ)教授のお話を交えながら、探っていきたいと思います。

災害文化/災害から得たあらゆることを後世に残し、根付かせる

岩手大学地域防災研究センターは、地域防災や東日本大震災からの復興に関する研究・教育を進めている岩手大学の組織です。「自然災害解析部門」「防災まちづくり部門」「災害文化部門」の3部門から構成されています。
岩手大学教育学部で英語教育を担当されている山崎友子教授は、災害文化部門のメンバーでもあります。

---災害文化という言葉を初めて聞きました。

山崎友子教授(以下山崎)---
そうですね。災害と聞くといやなことばかりだと思うかもしれません。でも、災害をきっかけとして始まった交流や、身に着いた知識や知恵、子どもたちを成長させた体験、などいいこともたくさんありました。
東日本大震災のとき、大きな暴動などが起きず、火事場泥棒も現れませんでしたが、これは海外では驚嘆と称賛のまざった目で見られました。
日本人にとっても未曾有の災害であり、どうすればいいかを誰かが知っていたわけではありませんでしたが、人々は全力を尽くしました。
誰からか教わったというわけではなくても、無意識に導かれた行動を支えていたのは、その地域の風土や文化というものであったかと思います。
災害に関わって生まれ、広がっていく意識・精神性・技術等を「災害文化」と呼びたいと思います。
異常な自然現象が社会の脆弱性をあぶり出し災害となります。被災の状況は、社会の弱さがどこにあるかを示してくれますので、被災地での復興に向けた努力やそれにより醸成される災害文化を知ることは、より安全で安心な社会創りに何が必要かということを教えてくれる普遍性をもっています。
災害文化研究により得られた知見は、全ての方と共有していきたいと思います。

---具体的にはどのようなことをされるのですか。

山崎---
教員養成に携わっていますので、被災地の学校に注目しています。
岩手県沿岸の学校は海に近いところにある学校も多かったのですが、東日本大震災では小中学校の学校管理下での犠牲はありませんでした。
なぜそれが可能となったかということを調べてみると、地域の学校としての実践の積み重ねだということが明らかになりました。
また、被災した学校、被災地域にある学校の震災後の取組みは、目を見張るものがあります。
震災後、防災教育が全国的に必要と考えられるようになりましたが、岩手県には、実際に被災を経験し、災害を乗り越えようとする教育の実践がありますので、「被災地に学ぶ」ということがキーワードです。
災害研究から学校や教師の役割等をより深く考え、そのような役割を果たすことのできる教師を養成したいと考えています。
大学の授業科目の中に震災前から「津波の実際から防災を考える」という科目があり、その共同担当者でした。
震災後は、被災地の学校での大学生と中学生や小学生との合同授業を必ず入れています。また、災害を内容とした英語の授業を開発するプロジェクトを実施しましたが、沿岸の被災地での講演・授業には、大学生も参加できるようにし、実践的な研究活動として、未来の教師を育てたいと考えてきました。

---学校の先生の役割は、確かに大きくなっていますね。

山崎---
災害文化の継承と伝播という役割も果たしています。
宮古市に田老(たろう)という地区があります。ここは、昭和8年の昭和三陸津波で、多くの方が亡くなり、津波に対しては日本一と言えるほど警戒していた地域です。
海面から10mもある「万里の長城」とも呼ばれた大防潮堤(地元の人は「防浪堤」と呼びます)もでき、2003年には「津波防災の町」を宣言するほどでした。
「津波てんでんこ」という言葉を聞いたことがあると思います。津波から逃れるためには、それぞれが逃げなさいという意味です。
田老では「命てんでんこ」ということばが使われ、命の大切さを強調しています。しかし、多くの人が命を失ってしまいました。
津波の高さが3mという警報の後、正確な情報が流されなかったこと、防潮堤が避難の時間を与えてくれている間に逃げるという習慣の徹底が不十分だったかもしれないこと等、多くの課題があり、命を守るには、ハード面の対策だけでなく、ソフト面での対応を根付かせておく必要が痛感されました。
このような気づきや知恵が災害文化の醸成であり、風化させないための日常の努力が災害文化の継承です。さらに、災害が世界の課題であることから、教訓を発信することにより、災害文化が伝播しています。

この田老地区には、二度の大津波を経験された田畑ヨシさんと荒谷アイさんがいます。田畑ヨシさんは「つなみ」という紙芝居を書き、30年以上にわたって学校などでの防災啓蒙活動を続けてきました。その内容については次章でご紹介します。

田畑ヨシさん作の紙芝居「つなみ」下記から読むこともできる
(無断転載不可)
http://www.englisheducation.iwate-u.ac.jp/yamazaki/

一方、荒谷アイさんは残念ながら今年2017年に亡くなりましたが、「津波」という作文を残し、作家吉村昭氏の『三陸海岸大津波』に収録されました。
小学生が一瞬にして孤児となった事実と小学生とは思えない筆力は多くの人々の胸を打ちました。また、平成の大津波を受けた田老第一中学校の作文集は、アイさんの「作文はいつか、誰かの役に立つ」ということばが後押しをして出来上がりました。

田老では、明治29年にも大津波があり、このときは人口の5割以上の1859人が亡くなったと言われています。
そして昭和8年の時が人口の18%にあたる911人。東日本大震災の津波では、行方不明者を含め185名(地区人口は4434人で比率は4%)が亡くなりました。かなり数字が減ってきているのは、他の要因もあるにせよ、こうした語り部たちの努力も無関係ではないと思います。

津波に関する作品の解説や、出版、英訳、フォーラムでの紹介なども山崎友子教授の活動対象になっています。

※数字の出典は、一般財団法人消防防災科学センター

山崎友子(やまざき ともこ)
岩手大学教授。長崎県出身。ハーバード大学教育学大学院修了。
専門は英語教育。東日本大震災後、地域防災研究センター兼務教員として災害文化の研究にも携わり、地域に根差した英語教育の開発を行っている。

※脳科学者の栗田教授のおもしろコラムはこちら から